クモマツマキチョウ


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 クモマツマキチョウは憧れの蝶です。 私の持っている保育社の日本原色蝶類図鑑(昭和40年版)のクモマツマキチョウに関する書き出しはこうです。 『アルプスの高峰、残雪もまばらな白樺の林、緑の芽をふくカラマツの森を流れる渓谷に飛翔するその清楚な姿は美の女神ともたとえたい』。 私はこの文章と図版を飽かずに眺めていたものでした。
 初めてクモマツマキチョウを見たのは学生の頃(ずっと昔のこと)、5月の末、北アルプスの雪渓を1時間ほど登ったところでした。 美の女神を求めて3年目、ようやくお目どおりがかなったのです。
 この時期の雪渓は黒ずんで決して美しいとは云えません。 それでも白い背景の上を激しく羽ばたいて飛ぶクモマツマキチョウは全身がオレンジ色の蝶としか見えませんでした。 憧れのクモマツマキチョウを初めて見た感激とその美しさに心臓はドキドキ、ネットを持つ手(この頃の私は蝶を採集していました)が震えていたことを思い出します。 雪渓の上を風に乗りクモマツマキはかなり速く飛び、雪渓の上を私は速く動けず、とても採集できそうにありません。 それに雪渓の上を飛ぶクモマツマキをこれ以後に目撃することはできませんでした。
 はるか高みに見える稜線の少し下、谷の片側の斜面が草付きになっています。 あそこまで登ればきっと沢山いるに違いないと私は雪渓を登って行きました。 登るにつれ谷は狭まり両側の崖からの落石が近くにまで落ちてくるようになり、時おりピューンと音をたてて飛びすぎていくこともありました。 理性は命にかかわる危険を告げています。 クモマツマキの飛んでいる姿を見てしまった以上引き返すことなどとても出来ません。 美の女神の圧倒的な魅力の前に理性は頭の隅に追いやられ、私はしゃにむに雪渓を登って行きました。
 草付の下までたどり着くと、食草のヤマハタザオの群落上をかなりの数のクモマツマキが飛び交っている姿が見えました。 信じられない思いでしばらく見とれた後、私は長い竿を持ってきていなかったので雪渓の上からではとどかないことに気づきました。 草付のクモマツマキは雪渓まで降りてこようとしません。 草付に取り付き少し登ればとどくのですが、斜面と雪渓の間は雪が溶けてできた幅60〜70cmくらいのクレパスになっています。 クレバスの雪渓の先端はそれほど鋭角ではないにしてもエッジ状になっていて立つと踏み抜く危険があり、腹這いになって覗き込むと青氷が暗く見えなくなるまで続いていました。  雪渓から草付に飛び移れない幅ではないのですが、雪渓の先端まで行けないのと草付が見るからに滑りそうなので理性は帰れと告げています。 目の前を飛ぶ憧れのクモマツマキを見て感情はそんなことを許すはずもありません。 アイゼンの紐をしっかりと締め直し、雪渓のエッジから少し下がった所からエイッと草付に飛び移りました。
 やはり草付は脆くて滑りやすく、下はクレパスの青氷が見えています。。 そろそろと2m位を這い登り、ようやくのことでヤマハタザオにとまっている1頭のクモマツマキチョウをネットに収めました。 このとき感激なのか恐怖なのかクモマツマキを三角紙に包む手が震えていました。 もう少し登れば10頭以上のクモマツマキが飛んでいる所まで行けるとはいえ、動くと足元が崩れとても登れそうな状態ではありません。 その場に何とか足場らしきものを作り、座ってクモマツマキが近くに来るのを待つことにしました。 そうして座ったままで、滑べり落ちないようにそっとネットを振ること1時間、♂7、♀2、のクモマツマキを三角ケースに収めていました。
 さて、次は草付から雪渓に飛び移らねばなりません。 1時間のあいだこのことが頭の隅をチラチラとかすめはするものの蝶を採るほうに気を取られていました。 こちらからのジャンプは上から下なので飛ぶ距離に問題は無いのですが、下に見えるクレパスに恐怖感があるし、足元が崩れやすいので立つことが出来ず逡巡していました。 考えてもどうにもなりません。 足場を固め直し中腰の状態から雪渓のなるべく奥に向かって、エイッと飛びだし、倒れながら着地しました。 すぐに下り始め落石の危険の無い所まで降りて来てようやくほっとし、ホクホク顔で、大満足顔で、普通の道だったらスキップでもしかねないルンルン気分で雪渓を下ってきました。
 雪渓の下まで降りてくると高校生らしいネットを持った兄ちゃんがよって来て、「全然いないですね、採れましたぁ」と聞いてきました。 無論クモマツマキのことです。 「このへんには居ないんじゃないかなあ、、稜線の下に緑の草付が見えるでしょ。 あそこまで登らないとダメですね」、「どのくらいかかります」、「2時間はかからないと思うけど、でも落石はあるし、雪渓と草付の間は深いクレパスになっていて飛び移らないと行けないし。 まあ、命がけですね、ハハハ」、「じゃダメですね」、「うん、行かないほうがいいですよ」。 気弱そうな兄ちゃんが残念そうに雪渓を見上げているので、♂の入った三角紙を一つ渡し、私は雪渓をあとにしました。
 でも、もし、この兄ちゃんが次の日まで滞在していたら、きっと登って行ったような気がします。 クモマツマキチョウにはそれほどにも人を引き付ける魅力があるのです。  清楚な姿で追う者を危険に誘い込む魔性の女神なのです。

 こうしてクモマツマキチョウとの初めての震えながらの出会いは終わったのでした。 その後もクモマツマキチョウを追って少々の危険を冒しましがこのときほどの鮮明な記憶は残っていません。
 思い返して、あのような無謀で大胆な行動を取れない今の自分が残念でなりません。 クモマツマキの産地で時おり谷すじの急斜面のガレ場に取り付いている人を見かけますが拍手喝采を送りたくなります。

 今でも毎年クモマツマキチョウを見に出かけます。 写真が目的なので上高地などの採集禁止地域へ行けば危険を冒さずに見ることが出来ます。 一生懸命に羽ばたき、わき目も振らずといった感じで真っ直ぐに飛ぶオレンジ色の小さな蝶が目の前を通り過ぎるとき、ヤマハタザオやスミレの花から花へと忙しそうに飛ぶオレンジ色の美しい蝶を見つけたとき、いつも私は無性に嬉しくなり、楽しさで心がいっぱいになります。
 かつて、あれほど欲しかったクモマツマキですが、今は手で取れるほど近づいても採集する気にはなりません。 飛んでいる姿を眺めるだけで十分満足してしまうのです。 それはどんな蝶でも同じで我ながら不思議な気がしています。

 ところで、未だに満足のいくクモマツマキチョウの写真が撮れません。 羽を広げオレンジ色のはっきり見える大写しの写真を撮りたいのですが一度も成功していません。 最低でも50cm、できれば30cm以内に近づいて撮りたいのですが、クモマツマキはほんの短い時間しか一つの花に止まっていないので接近が困難なのです。 参考までに私の撮影方法をご紹介しましょう。 いたって単純です。 カメラの焦点距離を前もって例えば50cmにしておきます。 飛んでいる蝶を追いかける、あるいは花に来るのを待つ。 花に止まったらカメラを顔の前に構え、まっすぐに近づいていき、焦点距離近くになったらファインダーを覗きながら更に近づく。 体を前後に微調整してピントが合ったらシャッターを押す。 まだ逃げていなかったらピントを調節しながら更に近づき適当なところでシャッターを押す。
 クモマツマキの場合は最初にピントが合うまで近づくまえに飛んで行ってしまうことがほとんどなのです。 それでも最近私がよく行くところでは午前10時前後と午後3時前後は、お腹が空いているのでしょうか、比較的長い時間花に止ってることがあります。 それ以外の時間は花の上にくると、ちょっと下りる素振りを見せるだけで飛んでいってしまうことが多いのです。 クモマツマキを撮りに行き、目撃はするけれど一度もシャッターを押せなかった日もありました。 でもこれはクモマツマキに限ったことではありませんが。


クモマツマキチョウは本州の中部山岳地帯に生息し、標高300mから2000mくらいの間に局地的に広く分布しているそうです。 私はあちこち探しましたが、標高800m以下で見たことはありません。 発生は年一回で低地では4月末、2000mの高地では7月末のようです。 私は北岳の雪渓で8月初めに見たことがあります。 食草はヤマハタザオ、ミヤマハタザオですが、ぺんぺん草(ナズナ)で育てたことがあります。 写真は♂、が♀。 ♀にはオレンジ色がありません。
 それにしても、女神の美しくも妖しい魅力が私の写真からは伝わってこないのがとても残念です。 飛んでいる姿を、しかもオレンジの羽を開いている瞬間を、山と雪渓を背景に写せたらクモマツマキチョウの美しさを表現できるのでしょうか。 そんな写真は夢でしょうね。


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